無条件の肯定

| コメント(0) | トラックバック(0)
田口ランディさんのブログ
に、
《拍手がほしい》という文章がアップされていた。

ランディさんはそこで、
拍手のことを《無条件の肯定》だと書いている。

ぼくはこの言葉から、
9年半いっしょに歩いた、
アイメイト(盲導犬)のエルムを火葬した、
4年前のことを想い出した。

振り出した雨の中、
花に囲まれたエルムが寝かされている、
ダンボールでできた棺おけが乗った、手押し車を押しながら、
ぼくらは火葬場にやってきた。

あの独特の「ゴー」という音だけが響く建物で、
係のおじさんが、
これからエルムが入る、
重い扉を開く。

「ありがとう」という言葉とともに、
もう一度彼の毛並みを確かめて、
開かれた扉の向こうへと、
エルムを送り出した。

その扉が「ガチャン」と閉じられた瞬間、
ぼくは思いきり拍手していた。

「お前ならだいじょぶだ。
何も心配せず行ってこい」
今ひとり、
扉の向こうに吸い込まれていった彼に、
心の中でこう叫びながら、
思いっきり手を叩いた。

それまであれだけ泣きじゃくっていたのに、
エルムに拍手するぼくからは、
悲しさもさみしさも消えていた。
それどころか、
なんとも言えない誇らしさすら感じていた。

あの時のぼくは、
生まれ、生き尽くしたエルムのすべてに、
そして彼と出会い、
ともに生きてこられた自分自身に、
さらにはぼくらをはぐくんでくれた世界に対しても、
《無条件の肯定》を表現したくて、
夢中で手を叩いていたんだと思う。


知るひとぞ知ることだけど、
ぼくの拍手の音は異常にデカい。
観に行ったライブの客席で手を叩いたら、
いっしょに来ていた知り合いが恥ずかしそうにするくらい。

そんな拍手が突然火葬場に響いたわけだから、
家族をはじめとして、
この時居合わせた人たちは、
さぞかしおどろいたんじゃないかと思う。

でもきっと、
手を叩かずにはいられなかった、
ぼくの気持ちも響いてくれたから、
とがめることなく、
思う存分拍手することを許してくれたんだろう。
みんなの無言のはからい、
ありがたかった。


拍手というものを語る時、
多くの場合、
《される側》にスポットが当たっている。

でも《心からの拍手》が響く空間では、
《する側》にも、
とてもあたたかなエネルギーが満ちていくんだと思う。


《される側》として、
ライブで歌っていると、
拍手にも、
様々な表情があるんだなって感じることがしょっちゅうある。

ぼくは歌いながら、
お客さんの顔を眺めることはできないわけだけど、
時として、
拍手から、
言葉以上に豊かな表情を感じることがある。

それはもちろん笑顔だけじゃなくて、
「まだ固い顔してそうだな」とか、
「寝てたけど、
曲が終わったからとりあえず叩いてるな」とか。

そして今までに一度、
いただいた拍手で泣きそうになったことがある。

最後の曲を歌い終え、
何度も頭を下げながら舞台袖に下がっても、
鳴り止むことなく響く拍手。
《大歓声》というのとも違う、
深くてあたたかで、
力強い空気。
一生忘れない。


ライブ中、
客席のひとりひとりに向かって、
こちらから拍手したくなっちゃうなんてこともしょっちゅうだ。

だから増田太郎ライブの定番曲、
《ぼくの声が》を演奏し、
会場全体で「I love you」と大合唱した後には、
ぼくは必ずこう呼びかけることにしている。

素晴らしい演奏を響かせてくれた、
バンドのメンバーに大きな拍手をッ!
音響や照明、
様々な形でサポートしてくれた、
スタッフのみなさんに大きな拍手をッ!

そしてッ!
素晴らしいコーラスを響かせてくれた、
自分自身に大きな拍手をッ!!

そしてぼくも、
みんなといっしょに手を叩く。

客席もステージも、
会場全体が、
《無条件の肯定》に包まれる、
とてつもなくしあわせな瞬間。

この瞬間に包まれたくて、
ぼくは歌い続けている。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://tarowave.sakura.ne.jp/blog/mt-tb.cgi/20

コメントする

このブログ記事について

このページは、Mプロが2005年5月19日 21:30に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「ヘッドフォンあれこれ」です。

次のブログ記事は「速報ッ」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。