2005年8月アーカイブ

「車、新しくしようと思うんだ」
一ヶ月くらい前、
母が笑顔でこう言った時、
「ついにきたか」と思った。

この話を聞いて、
真っ先に想ったのはエルムのことだ。

エルムと歩きはじめて、まだ間もない頃、
「ちゃんとエルムくんの席も、
あった方がいいよねぇ」
なんていう母の言葉から、
7人乗りという、
うちの家族構成からは、
どう考えても大きすぎる車がやってきたのは、
かれこれもう、
10年以上前のことだ。

そして、母の言葉とおり、
エルムには、
運転席のすぐ後ろ、
つまりVIPがよく座っているのと同じ席が、
《指定席》として与えられた。

彼もこの席が、
たいそう気に入ったようで、
自分以外の誰かが、
そこに座ることを、
決して許さなかった。

うっかり誰かが座ってしまっていようものなら、
必ず相手を鼻で押しのけ、
縄張りを奪還し、
悠然と横になる。

エルムの首輪には、
《アイメイト(盲導犬)》とかかれたメダルがかかっている。
横になっていた彼が首を持ち上げたりすると、
このメダルと首輪がぶつかって、
「カチャッ」という音を立てる。
ぼくはこの音が大好きだ。

指定席に横たわるエルムは、
よくこの音を響かせながら、
愉快そうに、窓の外を眺めていた。


また、彼は、
ちゃんとエンジンの音も聴き分けた。

ぼくらふたりが部屋にいて、
出かけていた家族が、
車に乗って帰ってきたなんて時は、
それまで、どんなにいびきをかいて寝ていても、
近づいてくるエンジンの音に「カチャッ」っと首を持ち上げ、
迎えに出た玄関で、
家族に頭をなでられていた。


エルムが突然倒れた時、
動物病院までかつぎ込んだのも、
息を引き取ったエルムといっしょに、
火葬場まで行ったのも、
骨と首輪とメダルを抱いて、
家まで戻ってきたのも、
この車だった。

大好きな家族、
そして車の出入りがちゃんとわかるようにと、
エルムのお墓は、
ぼくの部屋と駐車場との間に作られた。


あれから4年。
さらに走り続けた車は、
さすがに、くたびれてきたようだ。

でも、ぼくには、
エルムの指定席がなくなってしまうというのは、
なんともさみしいことだった。


そして今日、
新しい車はやってきた。

朝からずっと、そわそわしていた父が、
さっそく外へと飛び出した。

ぼくは部屋の窓越しに、
家族とディーラーとの話し声を聴いていた。

みんな大きな声であいさつを交わしている。
一通りの説明が終わったらしい。

車のドアが閉まる音がして、
キーが回され、
聴きなれたエンジンの音が響く。

「どうも色々ありがとうございました」
口々にあいさつしている、
父も母も、
運転席のディーラーも、
みんなの声が笑っている。


そして、
車は走り出した。

「ありがとう」
どんどん遠くなるエンジンの音を、
耳の奥に焼き付けた。


それからすぐ、
今までよりも、
ずっと静かなエンジン音がして、
それもだんだん遠くなっていった。

きっと父が、
《初乗り》をたのしんでるんだろう。

ほどなく新車とともにご帰還の父に、
「新しいのはどう?」と尋いてみた。
でも、やっぱり、
笑顔を作るには、
ほんのちょっと、努力が必要だった。


「エルムくんにも乗ってもらおうと思ってさ、
首輪とメダルを持ってったんだけど、
走ってると、けっこうカチャカチャ音がしちゃうんだよね。
だから後ろのダッシュボードに入れることにした」
と、笑う父。

「な?んだ。みんなおんなじじゃん」
そんなことを思いながら、
気がつくと、ぼくも笑っていた。


窓もないし、
今までよりは、少し手狭にはなっちゃったけど、
ちゃんと指定席をゲットしたエルムもいっしょに、
これからも、
色々な場所に出かけられることが、
とてもうれしかった。

きっとエルムなら、
新しいエンジンの音も、
すぐに覚えちゃうんだろうなぁ。


この車と走り続けることになる、
今日からの数年間、
誰と出会い、
誰と別れ、
どんな想いとともに、
ぼくらは過ごしていくんだろう。

そして、数年後、
ぼくはどんな気持ちで、
この車を見送っているんだろうか。

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