「車、新しくしようと思うんだ」
一ヶ月くらい前、
母が笑顔でこう言った時、
「ついにきたか」と思った。
この話を聞いて、
真っ先に想ったのはエルムのことだ。
エルムと歩きはじめて、まだ間もない頃、
「ちゃんとエルムくんの席も、
あった方がいいよねぇ」
なんていう母の言葉から、
7人乗りという、
うちの家族構成からは、
どう考えても大きすぎる車がやってきたのは、
かれこれもう、
10年以上前のことだ。
そして、母の言葉とおり、
エルムには、
運転席のすぐ後ろ、
つまりVIPがよく座っているのと同じ席が、
《指定席》として与えられた。
彼もこの席が、
たいそう気に入ったようで、
自分以外の誰かが、
そこに座ることを、
決して許さなかった。
うっかり誰かが座ってしまっていようものなら、
必ず相手を鼻で押しのけ、
縄張りを奪還し、
悠然と横になる。
エルムの首輪には、
《アイメイト(盲導犬)》とかかれたメダルがかかっている。
横になっていた彼が首を持ち上げたりすると、
このメダルと首輪がぶつかって、
「カチャッ」という音を立てる。
ぼくはこの音が大好きだ。
指定席に横たわるエルムは、
よくこの音を響かせながら、
愉快そうに、窓の外を眺めていた。
また、彼は、
ちゃんとエンジンの音も聴き分けた。
ぼくらふたりが部屋にいて、
出かけていた家族が、
車に乗って帰ってきたなんて時は、
それまで、どんなにいびきをかいて寝ていても、
近づいてくるエンジンの音に「カチャッ」っと首を持ち上げ、
迎えに出た玄関で、
家族に頭をなでられていた。
エルムが突然倒れた時、
動物病院までかつぎ込んだのも、
息を引き取ったエルムといっしょに、
火葬場まで行ったのも、
骨と首輪とメダルを抱いて、
家まで戻ってきたのも、
この車だった。
大好きな家族、
そして車の出入りがちゃんとわかるようにと、
エルムのお墓は、
ぼくの部屋と駐車場との間に作られた。
あれから4年。
さらに走り続けた車は、
さすがに、くたびれてきたようだ。
でも、ぼくには、
エルムの指定席がなくなってしまうというのは、
なんともさみしいことだった。
そして今日、
新しい車はやってきた。
朝からずっと、そわそわしていた父が、
さっそく外へと飛び出した。
ぼくは部屋の窓越しに、
家族とディーラーとの話し声を聴いていた。
みんな大きな声であいさつを交わしている。
一通りの説明が終わったらしい。
車のドアが閉まる音がして、
キーが回され、
聴きなれたエンジンの音が響く。
「どうも色々ありがとうございました」
口々にあいさつしている、
父も母も、
運転席のディーラーも、
みんなの声が笑っている。
そして、
車は走り出した。
「ありがとう」
どんどん遠くなるエンジンの音を、
耳の奥に焼き付けた。
それからすぐ、
今までよりも、
ずっと静かなエンジン音がして、
それもだんだん遠くなっていった。
きっと父が、
《初乗り》をたのしんでるんだろう。
ほどなく新車とともにご帰還の父に、
「新しいのはどう?」と尋いてみた。
でも、やっぱり、
笑顔を作るには、
ほんのちょっと、努力が必要だった。
「エルムくんにも乗ってもらおうと思ってさ、
首輪とメダルを持ってったんだけど、
走ってると、けっこうカチャカチャ音がしちゃうんだよね。
だから後ろのダッシュボードに入れることにした」
と、笑う父。
「な?んだ。みんなおんなじじゃん」
そんなことを思いながら、
気がつくと、ぼくも笑っていた。
窓もないし、
今までよりは、少し手狭にはなっちゃったけど、
ちゃんと指定席をゲットしたエルムもいっしょに、
これからも、
色々な場所に出かけられることが、
とてもうれしかった。
きっとエルムなら、
新しいエンジンの音も、
すぐに覚えちゃうんだろうなぁ。
この車と走り続けることになる、
今日からの数年間、
誰と出会い、
誰と別れ、
どんな想いとともに、
ぼくらは過ごしていくんだろう。
そして、数年後、
ぼくはどんな気持ちで、
この車を見送っているんだろうか。
一ヶ月くらい前、
母が笑顔でこう言った時、
「ついにきたか」と思った。
この話を聞いて、
真っ先に想ったのはエルムのことだ。
エルムと歩きはじめて、まだ間もない頃、
「ちゃんとエルムくんの席も、
あった方がいいよねぇ」
なんていう母の言葉から、
7人乗りという、
うちの家族構成からは、
どう考えても大きすぎる車がやってきたのは、
かれこれもう、
10年以上前のことだ。
そして、母の言葉とおり、
エルムには、
運転席のすぐ後ろ、
つまりVIPがよく座っているのと同じ席が、
《指定席》として与えられた。
彼もこの席が、
たいそう気に入ったようで、
自分以外の誰かが、
そこに座ることを、
決して許さなかった。
うっかり誰かが座ってしまっていようものなら、
必ず相手を鼻で押しのけ、
縄張りを奪還し、
悠然と横になる。
エルムの首輪には、
《アイメイト(盲導犬)》とかかれたメダルがかかっている。
横になっていた彼が首を持ち上げたりすると、
このメダルと首輪がぶつかって、
「カチャッ」という音を立てる。
ぼくはこの音が大好きだ。
指定席に横たわるエルムは、
よくこの音を響かせながら、
愉快そうに、窓の外を眺めていた。
また、彼は、
ちゃんとエンジンの音も聴き分けた。
ぼくらふたりが部屋にいて、
出かけていた家族が、
車に乗って帰ってきたなんて時は、
それまで、どんなにいびきをかいて寝ていても、
近づいてくるエンジンの音に「カチャッ」っと首を持ち上げ、
迎えに出た玄関で、
家族に頭をなでられていた。
エルムが突然倒れた時、
動物病院までかつぎ込んだのも、
息を引き取ったエルムといっしょに、
火葬場まで行ったのも、
骨と首輪とメダルを抱いて、
家まで戻ってきたのも、
この車だった。
大好きな家族、
そして車の出入りがちゃんとわかるようにと、
エルムのお墓は、
ぼくの部屋と駐車場との間に作られた。
あれから4年。
さらに走り続けた車は、
さすがに、くたびれてきたようだ。
でも、ぼくには、
エルムの指定席がなくなってしまうというのは、
なんともさみしいことだった。
そして今日、
新しい車はやってきた。
朝からずっと、そわそわしていた父が、
さっそく外へと飛び出した。
ぼくは部屋の窓越しに、
家族とディーラーとの話し声を聴いていた。
みんな大きな声であいさつを交わしている。
一通りの説明が終わったらしい。
車のドアが閉まる音がして、
キーが回され、
聴きなれたエンジンの音が響く。
「どうも色々ありがとうございました」
口々にあいさつしている、
父も母も、
運転席のディーラーも、
みんなの声が笑っている。
そして、
車は走り出した。
「ありがとう」
どんどん遠くなるエンジンの音を、
耳の奥に焼き付けた。
それからすぐ、
今までよりも、
ずっと静かなエンジン音がして、
それもだんだん遠くなっていった。
きっと父が、
《初乗り》をたのしんでるんだろう。
ほどなく新車とともにご帰還の父に、
「新しいのはどう?」と尋いてみた。
でも、やっぱり、
笑顔を作るには、
ほんのちょっと、努力が必要だった。
「エルムくんにも乗ってもらおうと思ってさ、
首輪とメダルを持ってったんだけど、
走ってると、けっこうカチャカチャ音がしちゃうんだよね。
だから後ろのダッシュボードに入れることにした」
と、笑う父。
「な?んだ。みんなおんなじじゃん」
そんなことを思いながら、
気がつくと、ぼくも笑っていた。
窓もないし、
今までよりは、少し手狭にはなっちゃったけど、
ちゃんと指定席をゲットしたエルムもいっしょに、
これからも、
色々な場所に出かけられることが、
とてもうれしかった。
きっとエルムなら、
新しいエンジンの音も、
すぐに覚えちゃうんだろうなぁ。
この車と走り続けることになる、
今日からの数年間、
誰と出会い、
誰と別れ、
どんな想いとともに、
ぼくらは過ごしていくんだろう。
そして、数年後、
ぼくはどんな気持ちで、
この車を見送っているんだろうか。
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